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犀 (木版画) : ミニ英和和英辞書
犀 (木版画)[さい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さい]
 (n) rhinoceros
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
木版 : [もくはん]
 【名詞】 1. wood-block printing 2. wood engraving
木版画 : [もくはんが]
 (n) woodblock print
: [はん]
 【名詞】 1. edition 2. version 
版画 : [はんが]
 【名詞】 1. art print 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

犀 (木版画) : ウィキペディア日本語版
犀 (木版画)[さい]

』(さい、、)はルネサンス期のドイツ人画家、版画家のアルブレヒト・デューラーが1515年に製作した木版画〔サイが到着した年を1513年としている資料も存在するが、これはデューラーの誤りをそのままコピーしたものである(Bedini, p.121.)〕。この木版画は、1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。ローマ時代以降、1515年まで生きたサイはヨーロッパに持ち込まれたことがなく、デューラーも本物のサイを見たことはなかった。1515年の終わりごろにポルトガル王マヌエル1世がローマ教皇レオ10世にこのサイを贈ろうとしたが、輸送途中の船が1516年初頭にイタリア沖で難破し、サイも死んでしまう。これ以降、1579年にスペイン王フェリペ2世にインドからサイが贈られるまで、ヨーロッパでは生きたサイを目にすることはできなかった〔Clarke, chapter 2.〕〔このサイにちなんで、マドリードにはポルトガル語でサイを意味する ''Abada'' と命名された通りがあった. 〕。
デューラーの手によるこの木版画は生物学的、解剖学的に正確なものではない。しかしながらヨーロッパで非常に有名となり、その後3世紀に渡って何度も模倣された。ヨーロッパでは18世紀末にいたるまで、この木版画はサイを正確に描写しているものと信じられていたのである。その後サイのイメージは、1741年にロッテルダムに持ち込まれ、17年間ヨーロッパ中を巡業したメスのインドサイのクララ (en:Clara (rhinoceros)) などを描いた、より正確なスケッチや絵画に置き換えられた。とはいえ「動物を描写した作品のうち、これほど芸術分野に多大な影響を与えたものはおそらく存在しない」とまでいわれている〔Quoted in Clarke, p.20.〕。
== モデルとなったサイ ==
1514年初頭にポルトガル領インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、グジャラート・スルターン朝の統治者だったムザッファル・シャー2世に同王国のディーウ島に要塞の建設許可を求める使者を送った。最終的にこの建設要求は却下されたのだが、交渉時に外交儀礼として互いに交わした贈答品に一頭のインドサイが含まれていた〔Bedini, p.112.〕。当時の実力者たちには、諸外国との外交手段として動物園で飼育されるような珍しい動物を贈りあう慣習があり、1515年5月20日に極東からリスボンへ到着したのは、このときのインドサイである。
ムザッファル・シャー2世から贈られたこのサイはもともと飼育されていたもので、人間によく馴れた個体だった。デ・アルブケルケはガンダ(ganda)と名づけられていたこのサイとインド人飼育係のオケムとを、ポルトガル王マヌエル1世への贈物とすることとする。1515年1月にゴアからインドサイを積んだ輸送船が船出し〔Clarke, p.16.〕、当時ポルトガルの植民地だった北アフリカのフォゴ島 (現カーボベルデ共和国)の、ノッサ・セニョーラ・ダ・アジューダ (''Nossa Senhora da Ajuda'')を経由する航路をとった〔7〕。フランシスコ・ペレイラ・コウティーニョを船長とするこの輸送船は〔História do famoso rhinocerus de Albrecht Dürer , Projecto Lambe-Lambe.〕、異国の香辛料を満載した2隻の僚船とともにインド洋を横断、喜望峰を回って大西洋を北に向かっており、航海途中にモザンビークセントヘレナアゾレス諸島に寄港している。
120日間という比較的短い航海の後、サイはポルトガルに到着する。当時建築中だったマヌエル様式のベレンの塔のすぐ近くであった。後にベレンの塔にはサイの頭を象ったガーゴイルが、コーベル(軒下の飾り)として設置されている〔See Clarke, p.19, for a photograph of a gargoyle.〕。サイはローマ時代以降、ヨーロッパでは見ることができなかった。このことはサイに神秘性を与えることとなり、ときに神話上の動物とみなされたり、動物寓意譚では想像上の動物であるモノケロス(ユニコーン)と同一視されたりもしていた。こういった理由により、生きたサイの実物がヨーロッパにもたらされたことは大騒動を巻き起こした。ルネサンスの精神では、サイは古代ギリシア・ローマの一部であり、古代彫刻や碑文などと同様に古典古代の復興といえるものだった。

サイは学者や好奇心に満ちた人々によって観察され、この幻想的な生物について記述した書簡がヨーロッパ中に送られた。このサイを表した最初期の画像は、ヴェネツィア人医師のジョヴァンニ・ジャコモ・ペンニ(en:Giovanni Giacomo Penni)によるものである。これは1515年7月にローマで出版された詩集の挿画で、サイがリスボン到着してから8週間足らずで出版された〔Giovanni Giacomo Penni, ''Forma e natura e costumi de lo rinocerote'' (...). See Ugo Serani, ''Etiopicas'' 2 (2006) ISSN 1698-689X イタリア語からスペイン語への翻訳〕。この挿画の現存する唯一の模写が、セビリアのコロンビナ図書館に所蔵されている。
サイはリスボンのリベイラ宮殿にあったマヌエル王の野獣園(en:Menagerie)に収容された。ここはマヌエル王が他に所有していた、ゾウなどの大型獣が収容されていたエスタウス宮殿とは離れた場所であった。マヌエルはその年の三位一体主日(''Trinity Sunday'')である7月3日に、このサイと自身が所有していた若いゾウとの戦いを企画する。これはゾウとサイが互いに天敵であるという、古代ローマの博物学者大プリニウスの記述〔Latin original and English translation of Chapter 29, Book VIII of Pliny the Elder|Pliny's ''Naturalis Historia''.〕を確かめることを目的としていた。サイは敵に対してゆっくりと慎重に近づいていったが、ゾウはこの催しを見物する騒々しい観客におびえ、一合も交わすことなくその場を逃げ出した〔Bedini, p.118.〕〔Albrecht Dürer, ''The Rhinoceros'', a drawing and woodcut , 大英美術館〕。
マヌエルはこのサイをメディチ家出身の教皇レオ10世への贈答品とすることを決めた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でのインドへの航路を「発見」して以来、ポルトガル海軍が展開していた極東における植民地化の占有権継続をローマ・カトリック教会に認めさせるために、マヌエルは教皇の機嫌をとる必要があったのである。この前年にもマヌエルは白いインドゾウをレオ10世に贈っており、教皇は自身で「ハノ (''Hanno'')」と名づけたこのゾウに非常に満足していたという経緯もあった。1515年12月に、花で飾られた新しいグリーンのビロード製首輪をつけられたサイは、銀食器や貴重な香辛料などとともに、テージョ川からローマへ向けて航海に出た〔Bedini, p.127.〕。1516年初めに船がフランスの港町マルセイユ近くを通過したときに、プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボーム(en:Saint-Maximin-la-Sainte-Baume)から帰還していたフランス王フランソワ1世は、このサイを見物したいと要望した。このため船はマルセイユ沖のイフ島に寄港し、フランソワ1世が見物できるように、1516年1月24日にサイが短時間この島に上陸したというエピソードがある〔The Frioul archipelago consists of four main islands. Bedini, p.128, nominates either Pomègues or Ratonneau; the other possibilities are the small island of If, now occupied by the Château d'If, or Tiboulain.〕。
航海を再開した後、リグリア海沿岸ラ・スペツィアの北にあるポルトヴェーネレ海峡を通過する際に、船は突然の嵐に遭遇し難破する。このときサイは暴れたりしないようにデッキに鎖で縛り付けられていたため、泳ぐことができずに溺死してしまう。サイの死骸はヴィルフランシュ=シュル=メール近くで収容され、その後リスボンへ返されたサイの毛皮は剥製となった。毛皮の標本が1516年2月にローマへ送られ、中に藁を詰めて展示されていたとする記録もあるが、16世紀の剥製作成技術からすると信憑性に疑問が残る。リスボンで生きたサイが大きな評判を呼んだのとは対照的に、ローマではほとんど話題にならなかったが、当時の画家ジョヴァンニ・ダ・ウディーネ(en:Giovanni da Udine)やラファエロ・サンティが絵画に残している〔Bedini, p.132.〕〔Gessner's Hyena and the Telephone Game , Manda Clair Jost, 2002 (PDF, 21 pages).〕。
サイの剥製がその後どうなったのかは不明である。その後もローマにあったとすれば、メディチ家によってフィレンツェへ持ち去られたのかも知れず、1527年のローマ略奪で失われたのかも知れない。1996年にイギリスの作家ローレンス・ノーフォークが、このサイをもとにして『教皇のサイ(''The Pope's Rhinoceros'')』という小説を書いている〔Biography of Lawrence Norfolk from the British Arts Council; Lawrence Norfolk, 1996, ''The Pope's Rhinoceros: A Novel'', Harmony, ISBN 051759532X.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「犀 (木版画)」の詳細全文を読む




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